栽培歴史
栽培の歴史(ナタ目栽培法から純粋培養種駒法へ)
大分県は、温暖な気候に恵まれており、また、年間降水量も1,500mm(平野部)~3,000mm(山間部)と比較的多いため、県土の70%には豊かな森林が広がっています。そして、森林にはしいたけ栽培に適した広葉樹が多く生育しています。
しいたけ栽培の始まりには諸説ありますが、代表的な説の一つとして「源兵衛(げんべえ)説」があります。1600年代中頃、豊後の国佐伯藩千怒の浦(現大分県津久見市千怒)に、源兵衛という者がおりました。家が貧しかった源兵衛は出稼ぎ人となり、大野郡宇目(現大分県佐伯市宇目)に移り炭焼業を細々と営んでいました。
あるとき炭焼のために伐っておいた木材にしいたけが自然発生しているのを発見した源兵衛はここから着想を得て、しいたけ菌が付着しやすいよう原木にナタで切れ込みを入れる方法を考案します。これが後に250年以上続くナタ目式栽培の始まりと言われています。
乾しいたけは江戸時代、岡藩(今の竹田市)や佐伯藩が高い関心を寄せていました。明治時代になって、その価値の高さから、生産振興のために県がクヌギ植林を奨励するようになりましたが、鉈目栽培という不安定さは克服できないままでした。ところが、1942年(昭和17年)に当時京都大学の学生であった森 喜作氏(のちに博士)が大分の山村でしいたけの豊作を祈る農夫の姿を見て「純粋培養木片種菌法」(しいたけ菌を培養した木片を原木に接種する方法)を発明すると、当組合は全国の先陣を切ってこの方法を導入しました。
これにより生産が安定すると一気に生産量が増加しました。これが大分県のしいたけ産業を飛躍的に発展させた要因と言われており、現在では全国的にこの方法で栽培が行われています。ちなみに、木片は現在「種駒」と呼ばれていますが、これは当時、弊組合組長の月本 小策が親しみ易いように名付けたもののです。